2007
English is not Easy
Makoto Hotta 中央大学 マニラではショッピングをしたり、旧市街地や大学の見学をしたり、TAGAYTAYの火山を見ながらの食事や人生初のスパに行き、タイではパタヤビーチで泳いだりホストファミリーとの自由行動。カンボジアはアンコールワットなど遺跡の観光。本当にあっという間に過ぎた二週間だった。 日本とは違う文化や食生活、僕にとっては初めてのことが多く、嫌なことや大変なこともいくつかあったが、旅行を終える頃にはどれもたいした問題ではなくなっていた。しかし、僕の苦手な英語が生まれて初めて僕を苦しめた。 フィリピンに到着して、僕とまさや君の男二人は予定されていたホームステイが、ホストファミリーが足りない関係でなくなり、ホテル生活と知らされ僕はほっとしていたのだが、意外にも海外のホテルでは英語を使う場面が多く存在した。 マニラのホテルでは、貴重品の金庫が壊れていたり、バスタオルが足りなかったり、お湯がでなかったりなどの理由で英語を使わざるをえない場面が多くあった。はじめのうちは問題が発生するたびにフロントへの電話などを英語のできるまさや君にまかせていたのだが、まさや君も嫌になったのか僕の成長のためかは知らないが、途中からはなにか問題があるたびに交互にフロントに電話するようになり、全然文章になっていない英語で相手に僕の要求を伝えるのに四苦八苦していた。 僕の英語の苦手意識はひどく、マニラの市街地見学の時はガイドさんがついていたのだが、その英語の説明を理解しようと一生懸命になっても半分ぐらいしか理解できず、見学が終わると慣れない英語に集中しすぎていたせいか軽く頭痛までおきていたほどだ。フィリピンでは常に周りにみんながいたので乗り切れたが、タイのホームステイでは言葉の壁の怖さを痛感した。 タイでは一つのホストファミリーに一人ずつ生活させてもらうことになり、僕のホストファミリーはタイで4つ星ホテルを三つと、ショッピングセンターも経営している大金持ちだった。僕はホテルの一部屋を使わせてもらい、ホストファザーは忙しいため全然会うこともできず、まるでホームステイとは思えないホームステイをして、結局僕はそこの長男で僕と同じ歳のFIRSTと常に行動を共にすることになった。 FIRSTと僕の会話はほとんどなく、とりあえずショッピングとお寺をいくつかまわると、やることまでなくなってしまった。FIRSTは気を使って色々質問をしてくれるのだが、僕の英語力ではほとんど理解ができなかった。FIRSTも嫌になってしまったみたいで、僕にゲイのショーのチケットを買ってきて、「夜までにやること考えておくから一人でショーを見て」と言ってきた。 このときは今まで自分が苦手な英語から逃げてきたことを本当に悔やみ、だれでもいいから日本人のいるところへ行きたかった。ショーも終わり夜になると、FIRSTが友達を連れてきて、みんなでドライブに行くことになった。僕は全然乗り気ではなく、(どうせ会話もできないからつまらないし早く帰って寝たい)というような気持ちだったが意外や意外、バーに行ってお酒を飲んだり、ドライブしたりしながらギャーギャー騒いでいると言葉の壁なんてものはまったくないことに気づかされた。翌日も同じメンバーで買い物に行き、結果的にとても楽しくホームステイを終えることができた。 そして今回の旅行を終えて、僕の英語への苦手意識は少し薄れた気がする。この旅行を機にもう少し英語の勉強をしてみようと考えている。 Amazing Angkor Wat
Kazue Iwamoto 上智大学 今回の旅はアジアの3カ国を巡りました。タイは以前に一度訪れたことがあったのですが、フィリピンとカンボジアは初めての国だったのでとても楽しみにしていました。3カ国の中で最初に訪れたフィリピンの印象は、貧困の差が激しい国、でした。裕福で進んだ生活をしている人がいる一方、スラムで暮らす貧しい人々もいました。その現実を目の当たりにして考えさせられることは多かったです。 タイではホストファミリーに新しいショッピングモールやバザールに連れて行ってもらったり、遺跡を観光したりとタイの伝統的な部分と発展的な部分の両面を体験することができました。 タイからカンボジアへ行く道のりはとても貴重な体験でした。見渡す限りの平野の中、舗装されていない道路をがたがたと揺られながらの5時間は、忘れられない思い出となったと思います。飛行機で行くよりも、国境を越えるのだ、という感覚をより強く味わえました。そして、2週間の中で一番楽しみにしていたアンコールワットの壮大さに感動しました。カンボジアは、貧しいながらも生きる力に溢れている国だと私は感じました。 タイとフィリピンでのホームスティ先では、私たちを暖かく迎え入れてくれ、自国の文化など様々なことを教えてもらいました。また、自分と同年代の友だちもできました。何より、旅の始めから終わりまでずっと一緒に過ごした日本のメンバーは、最初に会ったときからすると信じられないぐらい仲良くなれました。 この旅を終えてもっともっといろんな国、地域に行ってみたいという気持ちが一層強くなりました。また、あちこちで物売りをしている子供たちと出会って、自分は恵まれているのだなと改めて感じました。先進国の日本で生まれ、様々なことを学び吸収できます。それを自分の中で終わらせないで何らかの形で社会に還元していかなければならないと思います。日本ではできない経験ができたのは、三郎さんと一恵さんのおかげです。日本での集まりのときから本当にお世話になり、お二人には感謝しています。ありがとうございました。 Masaya means Happy
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Masaya Shirota 桜美林大学 マカティ@フィリピン 今回は2週間いなかったわけですが、はじめの6日はフィリピンのマニラに滞在。 ホームステイの予定が、男二人は、ホテル暮らし。 チップだってあげ慣れた。ホテルに入ったらまずチェックするのは、バスルームと金庫がちゃんとしているか。だめなら、荷物を持ってきてくれるボーイさんに言うことを学んだ。 マカティは今のフィリピンの中心都市。空港から来るときは沢山スラムがあった。でも、 マカティはとても綺麗。ショッピングモールや、レストラン街、銀行やらなんやら、沢山ビルも立ち並ぶ。もっと、あちこち見たかったけど、危ないから、そういう人たちとはなかなか関われないのだ。(日本人=金持ち→誘拐しちゃえ!) さて、写真の一枚目は、言わずもがな。King of fruit、ドリアン。クリーミーで濃厚な味、そして、生ゴミっぽい臭い。申し訳ないけど、う○こっぽい臭いといえば、そうかも。忘れられません。 二枚目は、バス。名前は忘れてしまった。フィリピンの相乗りバスでググってみてください。アメリカ軍の払い下げをああやってデコレショーンして使ったのがはじまりとか。 話は変わるけど、向こうのタクシーやバスの営業熱心なこと!道を歩いてるとクラクションならして、脇をゆっくり通り過ぎる。乗らないの?って感じで。ちなみに、交通事情はとても悪い。ウィンカーはもちろん出さないし、車線もあんまり関係ない。パトカーや消防車は空いてるほうの道、逆送するしね。クラクションもひっきりなし。どうやったら警察に捕まれるのか不思議だ。 三枚目は旅の仲間。旧マニラ市街地で、唯一アメリカ軍の爆撃を免れた、サン・アウグスティン教会の中庭で撮った。マニラはWorld War 2まではアメリカの植民地として、アジアで一番栄えていた貿易都市だったけれども、第二次世界大戦で、日本軍に占領され、(日本軍が占領したときは、アメリカ軍が逃げ出したので、ほとんど戦争することなく占領)D.マッカーサー率いるアメリカ軍が、2,3年後に反撃してきたときに爆撃されて、見る影も無くってしまったそうな。ガイドさんが恨んでいる様子もなく、淡々と語るのが印象的だった。 いまのマニラの旧市街地は復元されたもの。でも、すごく綺麗なんだなー。 2. @フィリピン2 フィリピンで自己紹介をしたときにいわれたけど「まさや」ってタガログ語で「happy」って意味なんだって。一枚目の写真はカーサ・ビアンカ。サン・アウグスティーヌ教会のすぐそばにある。スペイン統治時代のスペイン人の家の復元。オリジナルは第二次世界大戦で灰と化してしまったので、いつぞやの大統領夫人が建てたんだって。ちょっとバルセロナ?って感じの雰囲気があるけれども、スペイン統治時代はマニラはアジアとヨーロッパの交わる港だったから、家はスペインっぽく、内装はフランスから、ピアノはドイツ製、窓には日本の障子を真似た格子に薄い貝をはめた物。そんな感じだったんだって。スペイン人は上の階に住んでたそうな。外は、自分たちの捨てた汚物で汚かったから。ちなみにスペイン人は2ヶ月に一度しか風呂に入らなかったんだって。考えられない! フィリピン人は川で綺麗にしてたらしいけれども。 2枚目は見て分かるように蛇。首に巻いてみました。蘭園に行ったときにいたのだ。蘭園には、いろいろな花が咲いてた。サンパギータとか、クリトリアとか。どうやらサンパギータはジャスミンのことらしい。クリトリアは蘭の一種なのかな。その名前の由来で、びっくり。最後にいた蛇は大きかった!とりあえず、触ってみると、意外にプニプニしてる。硬そうなのにね。それに、ひんやりして気持ちいい。みんなキャーキャー言ってたくせに、男二人が巻いたらやりたがって、最終的には「かわいい�」だって。 3枚目はタガイタイ。フィリピンのカルデラ湖。今は休火山なんだって。火口は二つあるのだ。いまから70年位前に噴火したってボビットさんが言ってた。いまはリゾートになっている。この日はJolli beeというフィリピンのファーストフード店で朝食を食べた。だって、ホテルの朝食は何枚かのトーストにキュウリとトマトのスライスが2枚だけなんだから! マックなんかよりも、安くておいしい!!セットでも90ペソとかだから200円くらい。フィリピンではマックが出来るとその隣にJolli beeが必ず出来るんだって。しかも、Jolli beeのほうが人気が高いと。タガイタイに行く途中、休憩でスタバに寄ったんだけど、海外のスタバではカップにお客の名前を書くのは一般的らしい。注文が終わると名前を聞かれる。日本名だから、間違えられる人続出だけど、僕はちゃんと書いてもらえた。だって「Masaya means happy in Tagalong!」だからね。 3. @タイ タイの空港はかっこよかった。「ステンレス・ガラス・青い光」という要素がとてもいいね。スターウォーズ・攻殻機動隊って感じ。この空港新しいらしく、国際線・国内線がひとつのターミナル内にあるから、えらく広い。イミグレまで遠かった・・・。両替したら、お姉さんが手を合わせてお辞儀してくれた。思わず、お辞儀。タイが日本人に人気なのは、こういう共通点があるからなのかもしれない。ここからバンコクまで、バスで1時間弱。眠かった・・・。 アジアホテルはロビーに蚊が沢山いた。足の指をさされるのってものすごくストレスだよ。3つ星と聞いていたけれども、フィリピンのと大して変わらない印象を受けた。 次の日はアユタヤへ。アユタヤはタイの昔の都。カンボジアに2回攻められて、2回目に火をつけられて、住めなくなってしまったのだ。 だから、いまは遺跡だけ。お寺もあるけれども。お寺といえば、タイでも靴を脱いでお寺に入るのです。日本と違って、分かりやすくなっているわけでは無いけれども。おみくじもあるし、投げるわけじゃないけれど、お賽銭もある。見た目は違うけれども、根幹にあるのは同じ仏教。表象の仕方が違うんだね�。 象にも乗った。うちののった象はマイペースでどんどん引き離され追い越されていく。ちょっと、悲しい。象使いの人はカッコよかった。なんか、象のこともお客のことも分かってます!って感じで。その辺の街路樹切って象にあげたり、途中で止まるときは、木陰に入ってくれたり。心遣いがありがたいね。いや、ホントに暑かったから。 4. @アンコールワット アンコールワットへは陸路で。カンボジアまでタイの舗装された道路で4時間、国境を越えてから、悪路に揺られること6時間くらい。 タイで、休憩は一回、セブンイレブンによった。おでんみたいな感じで、ソーセージ、トマト、レタスとかにチリソースをかける食べ物を食べた。おいしかったなぁ。 カンボジアとの国境では、まさしく「あいのり」のように国境を飛び越えた。写真は国境のタイ側の免税店(?)。カンボジアの道はすごかった。本当に笑っちゃうくらい、酷い。まず、舗装されてない。だから凸凹。ずっとはねてるんだ!途中で3回休憩を挟む。そりゃあ伸びをしたくなる気持ちもよくわかるでしょう? 一回はパンクしたからバスがどこかへ直しに行ったけど、荷物も載せたままだったから、そのまま盗まれたらどうしようねぇとみんなで話した。実際、一緒に行ったタイの子が国境で財布すられたし。そんな危険をひしひしと感じながら道を行ったけれど、アンコールワットのそばのホテルが沢山あるリゾートに来たら、これまでが嘘みたいに道路は舗装され、ネオンが輝く町になった。この町の水は、日本の支援で作られたもので浄水されているらしい。そんなことをガイドさんが行っていた気がする。ホテルについてびっくり、バンコックのアジアホテルも3つ星だったけど、同じ3つ星かと思うようなリッチなホテル。とりあえず、夕飯を食べてからはプールへ。タイの子達は来てもすぐに部屋に帰っちゃったりして疲れていたみたいだけど、日本人はアホかと思うくらいのテンションで泳ぐ。ヴァカンス!って感じ。プールが閉まった後も、バーでお酒を飲みながら、みんなで語り合う。日本人ってなんなのよとか、いじめられたことある?とか。このメンバーは自分が「他の人と違う」っていうのをきちんと認識しているのが共通点かな。次の日はいざ、アンコールワット遺跡群へ。 アンコールワットといっても、アンコールワットだけではなくて、年代ごとに、いろいろな遺跡がある。仏教遺跡というより、ヒンドゥー教の影響を色濃く受けたものと考えた方が良いのかな。すこし、ヒンドゥーの神様の知識があってよかったけど、知識不足で楽しめず。悲しい哉。木が破壊してる遺跡や、フランス人が発掘したアンコールトムも見たけれど、一番すごかったのは、アンコールワット。言葉じゃ言い表わせないので、興味のある人は行って! 夜は、また泳ぐ。今日は、タイの友人たちも一緒に泳いだり、プールサイドで紙風船で遊んだりした。英語が苦手だったり、タイ語が分からなくても、まぁ、なにか通じるものはあるよね。 カンボジア最後の日は、キリングフィールドやトンレサップ湖に行った。キリングフィールドにはお寺のほかに、真ん中に骨の入ったお堂があるんだ。日本人の僕としては思わず合掌してしまうけれど、タイ人は仏像には合掌するけど、お堂にはしなかった。仏教国でもちがうのねーと思った。 レンサップ湖は雨季と乾季でかなり水量が変わる湖。だから、人が住むのは湖の周りでなく、湖の上に家を浮かべて住んでいる。TVで見たことあったけど本物は違うね。教会も学校も図書館も浮いているんだ。人間ってどこでも住めるんだなぁと壮大さを感じた。 カンボジアの空港は比較的きれいだったけど、入国管理管はものすごい愛想が悪かった。タイについたらそのままパタヤへ。この高速道路も結構な悪路だった。 5. パタヤビーチやようこそ! ついたのは真夜中だったから、次の日初めて、パタヤビーチに立った。パタヤビーチはもう綺麗じゃないから、高速艇で沖の島まで行く。このときの気持ちよさといったらないね。パタヤではみんなでビーチボールであそんだり、初めて、水上バイクに乗ったりした。お昼ごはんを食べた後、ホテルへ帰って荷物をまとめる。何しろ、この日の夜にはバンコックの空港から日本に向けて飛び立つ予定なのだから。 ホテルをチェックアウトしていると、タイでのまことのバディだったアジアホテルの御曹司、ファーストが来てくれた。アジアホテル@パタヤを案内してくれるってことだった。アジアホテルはプライベートビーチつきのリッチなホテル。一回の部屋からは直接ビーチに行けるんだ。今度はぜひここに泊まりたい。 それからは、マッサージやアウトレットモールへよりながら、空港へ。モールでマイの彼氏のパンダも合流。ラブラブでいいねぇとからかう。 空港でタイの友人たちともお別れ。お別れにジャスミンとラブフラワーとバラで出来た花飾りをくれた。お互いの母語で、goodbyeとかsee youはなんていうの?と聞いて、それを言い合って、別れた。「みんなにまた会いに行きたいな。タイ語も勉強しなくては」と決意するのでした。 |
Unforgetable Children
Marie Kondo 青山学院大学 3月10日朝、未知の国であったフィリピン・タイ・カンボジアへの期待と不安を胸に、私はアジア友好の旅へと出発した。2週間という短い期間ではあったが、滞在中の新しい発見や挑戦は、私の視野を広げ、現在の私の価値観に大きく影響を与えた。みんなの笑顔を懐かしく思い出しつつ、素晴らしい経験を積めた今回のアジア友好の旅を振り返りたいと思う。 <フィリピン 初のホームステイ> 今回のフィリピンでのホームステイは私にとっては人生初のホームステイであった。 正直に言うと私は無知識にも、実際にフィリピンに訪れる前に抱いていたホームステイ先のイメージは「砂地の上にバナナの皮でできた家」だった。しかし案内されたお宅は部屋からフィリピンの夜景が一望できる高層マンション…。私の受けた衝撃は相当なものだった。その上、数名のメイドさんとドライバーさんまで。窓をあけると、小さな建物がひしめく中にポツンポツンと高層ビルがそびえたっていて、夜遅くまでバスのクラクションがひっきりなしに鳴り響いていて、日本で聞くものとはまた違う、都会の騒々しさがあった。 ホームステイ先の大城さん一家は、とても暖かく親切な方たちで、友人と私を笑顔で向かいいれてくださった。心地よい風を肌で感じながら食べる、フィリピンのおいしい家庭料理やフルーツケーキ、新鮮なマンゴー。フィリピンでは、スプーンとフォークを器用に使って食事をしていて、私も実際に使っていく内に、だんだんと慣れていくことができた。まさに、“When in Rome, do as the Romans do.” 最初はなかなか溶け込めず、不安にもなったが、別れのときが近づき、タイに向けての荷物を整理していた私のところに、ママが会いに来てくれた時、その優しさが本当に嬉しくて、心のコミュニケーションには、文化や考え方の違いなんか関係ないのだと身を持って知ることができた。そして、時間や場所にかかわらず、初めの一歩が朝のあいさつからだとしても、これからは自然に交流していこうと強く感じた。これは今の日本での生活において、「一期一会」を意識した普段の心持ちに大きく反映されていると思う。 <タイ> タイに着いてまず感じたのは、むっとする暑さと道路の静寂さ。日本で出発前に「タイは本当に暑いよ」と言われていてある程度覚悟はしていたが、こんなにもフィリピンと差があるとは…。空港からホテルへ向かいながら、暑さによる体力的な不安を抱くとともに、交通渋滞や混雑が激しく、無理な割り込みや車線無視走行をする車が多かったフィリピンに比べ、タイ(Bangkok)の道路は日本と同じように整備されていて、ホッと心が落ち着いたのを覚えている。私がタイで印象的だったのは、店を出るときに店員さんが胸の前に両手を合わせて「コップンカァー」とお辞儀をする礼儀正しい姿や、若者から年配の方にいたるまで、タイの国教である仏教を重んじ、国王に対し尊敬や畏怖の念を抱いている姿勢だった。タイとカンボジアを通して共に行動したタイの学生たちはみな親切で落ち着いていて、人との付き合い方も日本人と似ているなと感じた。学生たちの間で音楽やアニメ、漫画を中心とした日本の文化がとても浸透していたことにも驚いた。同じ時間や空間を共有し、また多様な文化をお互いが尊重し合っていく中で、同じ惑星に住む地球人としての自覚とともに、だんだんと相互理解を深めていくことができるだろうと、私は旅を通して真に思った。 <子どもたち> 今回のアジア友好の旅で、一番私の心に衝撃だったのは、日本ではまずみることのないような子どもたちの姿だった。 フィリピンに着いたその日/コンコン…コンコン…/音のするほうへ 目を向けた/車の外で すぐ脇で/炎天下の中 眉をしかめつつ/小さな 小さな子どもが/薄汚れた商品を手に/じっとこちらを 見つめている/この子との間にある距離は/商品を買ってあげることで 縮まりはしない 地元の屋台に行く途中/突然 右手を握られた/振り払うよりも前に/その小さな手は 離れた/無視して 相手にしないこと…/そうすることしか できなかった タイのギラギラと照りつける太陽のなか/昼食のため入った 水上レストラン/ここでも 子どもはりっぱな働き手/カキ氷を求める子どもの客に/慣れた手つきで ココナッツを捌き/対応したのも 幼い子ども タイとカンボジアの国境では/特に警戒するようにと言われ/かばん握り締め/恐る恐る 歩みをすすめた/すぐ横には 日差し避けに/大きな傘を広げ 付いてくる子ども/濁った水の入ったコップを揺らしながら/目で訴えかける子ども ベトナムとの国境近くの カンボジアの水上の街/一人の少年が 機敏な動きで/舵取りの手伝いをしていた/強いまなざしを持つ少年の目には/何が映っていたのだろう/水面は 日差しを受けて/キラキラと輝いていた 観光客相手に 商売する子どもたち/バスに戻ろうとする私たちに付いてきた 本当に小さな子どもたち 漠然と、私に何ができるだろう?と、考えてしまった。私が考えているような幸せでいることが、彼らにとって幸せだとは限らないことは分かっている。とはいえ、充分に教育を受けることもなく育ち、社会の底辺で生きている子どもを見ていると、私に何ができるのか、何かできないかと考える。実際、私にできることは微々たるものだが、それでも最低限、思考停止にならないように、彼らの生活を苦しめるような生活を、私自身がしないように、自分にできることをしていこうと思う。 共に笑い合い、同じ空間・時を過ごした仲間たち、貴重な機会を与えてくださった波多野三郎さん・一恵さん、そしていつも見守ってくれる大切な家族…総じて今回の旅を支えて下さった皆様への深い感謝を込めて。 Easy lifestyle in hot climate
(Yoshie・Left) Yoshie Iimori 会社員 我が家の近所には、お手伝いさんや子どものお世話係として、フィリピン人を雇っている家庭があり、子供づれで歩く姿を時々見かける。かつて乗った客船にも、船員として働く人たちがいて、人懐っこく、笑顔で話しかけてくれた思い出がある。なんとなく、世界に出て働く人々が多い国というイメージがある。フィリピン人のホスピタリティは最高だ、という声もきく。 政治が不安定だというニュースと外国に働きに来ている人と、そしてフィリピン国内で暮らす人とが私の中でつながっていない。地図で見ると、なんだか遠いアジアの国であるような気がするが、飛行機に乗れば、4時間程度でついてしまう、案外近い国なのである。 なのに、1度も訪れたことがなかったフィリピン。GYUのツアーにフィリピンが含まれる、ということで、フィリピンに友達ができるといいな、という軽い気持ちで参加表明をしてしまった。 のんびりおおらか? 出発当日まで、行程もホストファミリーのことも連絡がなく、のんびりしたお国柄のせいだろう、どうにかなるだろうと気にも留めなかった。計画をきっちり立てたってダメなときはダメだし、前もって連絡がなくても、うまく行くときにはうまく行くものだ。そんな風に考えられるようになったのは、ある程度経験をつんだからかもしれない。学生時代だったら、何度も催促しただろうし、不安なまま、飛行機に乗り込んだことだろう。 空港についてみると、誰もいない? 大地舜氏が電話をしてみると、ミーティングポイントHにいるという。苗字の頭文字を指定してある看板の下に立つも、誰もいない? 湿気で体の周りに膜ができるような感覚になるなか、きょろきょろしていると、やがて、2人の男性と1人の女性がやってきた! フィリピンでお世話になる、アテックさん、ボビットさん、ラケルさんだ。アテックさんとボビットさんは兄弟で、よく見ると目元が似ている。ラケルさんは日本に留学していたことがあり、きれいな日本語を話す。笑顔の優しい女性だ。続いて2台のバンが到着し、我々は荷物をつみ、バンに乗り込んだ。 フィリピンでの大学のテスト期間にちょうど当たってしまったため、我々の活動に参加する大学生をほとんど募ることができなかったこと、ホストファミリーを必要数だけ手配できず、我らのツアーのボーイズ2人組みはホテル滞在となったということを知ったのもこのバンのなか。このことに、ラケルさんや、わたしのホストマザーである、ラケルさんのお姉さんのメリーさんは心を痛めていて、彼らが快適に楽しく滞在できるように、といろいろと心配してくださっていた。例えば、次の日のお出かけ用に冷蔵庫に水を冷やすときも、ホストファミリーがいない彼らの分もいっしょに持っていってね、と声をかけてくれたり、ボーイズがホテルで経験した騒動を聞いては、「愉快な体験ができたよかったわ・・・」とニコニコしていたり・・・。彼らの行動を全面的に受け入れ、「なんてかわいいの!」というのを見るにつれ、あまり細かいことにはとらわれない国民性以上に、人間共通の「ママな気持ち」が働いているのではないかと思った。よちよち歩く子どもをみて、「ほらほら、こっちよ。がんばって」という感じ。(ボーイズの二人、失礼!)でも、ビジネスパーソンでもある2人は、きっちりしているところもある。ボーイズが寝坊したとき、レセプションに次の日のモーニングコールの約束を取り付けていたり、ガイドとの待ち合わせ時間を気にしていたり、旅行会社の社長らしさをかもし出していた。 ともかく、予定があるようでないようで、そしてのんびりしているようで、なんだか時間を気にしているようなフィリピンツアーは始まった。 フルーツバンザイ ホストファミリーに会い、最初の晩に食べたものの中に、バナナを甘く煮たものがあった。生食用のバナナと違い、実が硬くあまり甘くないもので、サバ(サにアクセントがある)と呼ばれているそうだ。わたしは普段、生のバナナを自分からは求めないのだが、火を通すなど、手を加えてあるものは好んで食べる。そのためか、これを大層気に入ってしまい、「おいしい、おいしい」と言って食べたら、毎朝、このサバが出され、これを食べなければ朝が始まらないようになった。この家のおばあさんも、外で食べるサバより、家の味付けが一番だと言っていた。それを聞いていたお手伝いさんははにかむようにしていた。多分、料理は彼女の手によるものなのだろう。 もう一つの楽しみはマンゴーである。種を除いて、半分に切ったものが皿にいくつも盛られ、どんどん食べろと進めてくれる。皮に沿ってスプーンですくって口に運ぶと、少し青臭い甘みとねっとりとしたトロピカルな香りが鼻と口に広がる。マンゴーの木を庭に持つ家庭は少なくなく、ホストファミリーの庭にも、マンゴーの木があり、実がたわわに実るそうだ。わたしたちの滞在中は、まだ実が青く、それは食べられなかったけれど、熟すともいで食べるそうだ。果物好きとしては、なんともうらやましい。 このツアー中、休憩中に、ドリアン、パパイヤ、マンゴー、バナナと果物を食べる機会に恵まれたが、一番印象に残っているのが、セニョリータという名前の親指ほどの小さいバナナの房。生食バナナはあまり食べないわたしも珍しさに一つ手を伸ばしてみた。バナナのブランドといえば、チキータ。スペイン語で「少女」、米国南西部では、「かわいい子」という呼びかけでも使われるらしい。今度は「お嬢さん」だ。バナナは女の子のイメージがあるのかしら? 口に入れてみると、通常のバナナと変わらない味である。郊外での道端で購入したのだが、値段もそれなりにする。 調理済みバナナ好きとしては、バナナチップがいい、と思った。実はマーケットでいくつも袋詰めされたバナナチップを買い込んでいる。いっしょにマーケットに行ったラケルさんとメリーさんには、私のサバ好きを知ってか、やっぱり笑っていた。「そうよ!バナナよ。セブのバナナは有名だもの」。 家に帰って食べてみると、日本のバナナチップよりも、油分も多いのだろう、サクサクとしていた。これはイケル、どんな油をつかうとこの味になるのかと思い原材料を見てみると、banana、sugar、oilとだけ書いてあって、拍子抜け。確かにoilだけど・・・。日本で買うフィリピン・セブ産のバナナチップとはどこか味が違う。ココナッツオイルと見当をつけたけど、真相はわからない。また、マニラに行かない限り、出合えない味なのかもしれない。 東洋風マリア サンアグスティン教会を案内してくれたガイドは、非常に優秀で、話も上手。メリーさんは、初めて仕事を依頼したといっていたが、結構有名な人らしい。歴史や風俗を音楽や写真をまじえて、興味深く話してくれる。とはいっても、美術好きには、ガイドのスピードは早く、昼食のあとに今一度見ようとレストランから外に出ると、やけに物静かだ。お昼休みは、スペインの風習を残して人々が昼寝でもしているかのようだ。教会の博物館も閉めてしまう。けれど、教会を閉めるはずがない、観光客だけ止めているだけだと裏口から教会の庭を抜け、建物に入る。やはり、開いている。このまま、博物館の方に歩いても何も言われない。すれ違う人たちに、一瞬、あれという顔をされるが、何も言われない。それをいいことに、教会内の彫刻や絵画をじっくりと見ていった。 サンアグスティン教会付属の博物館で、東洋風の顔つきのマリア像や中国風の装飾をつけた教会用具を見かけた。キリスト教に限らず、すべての習慣が根付くとき、土着の文化と融合することが多い。その例の一つであろう。 マリアはガリラヤ地方のナザレの女性である。なのに、美術館などでよく目にする「受胎告知」や「無原罪の御宿り」などの画題では、描かれている地方や時代の風俗が描かれることも多い。つまり、見る人が分かりやすく親しみを覚えるように七変化しているのである。北方では金髪碧眼で描かれるし、南にいけば褐色になる。土着の信仰との結びつきからか、黒いマリア像もある。だから、マニラで中国風のマリア像を見せられたときには、マニラには中国人がたくさんいた、という証拠なのだと受け止められた。 カソリックの国に来たからには、マリア像の1つでも手を入れようと教会付属のみやげ物屋やクラフトショップ、アンティークショップを覗いてみる。木像で古色がついたものが、日本円で10万円ほど・・・。重たいし、現金ももっていないし、であきらめることにした。 その話をアテックさんにすると、次の日・・・。さすがはカソリックの国、家にあるプラスティックのマリア像やロザリオ、キャンドルなどをプレゼントしてくれるというではないか! 確かに家の正面にキリストやマリア、聖心を掲げる家もよく目にしたが、家の中にも飾ってあるのだろう。ありがたく受け取り、家のマリア像コレクションに加わっている。 ホームステイ お世話になったメリーさんの家は、入り口にガードがいて、住人以外は自由に入れないという区画の中にある。ホストマザーのご両親は、若い頃に、この区画内の土地をいくつも買い、親戚がそろって住んでいる。ちょっと歩けば、ラケルさんの家もある。その区画の中の家はどれも立派で、時間を問わず、安全だという。その区画の外には、トタンの家や崩れそうなブロックの家もあるのだから、階層によって住む場所が歴然としていることがわかる。夜、車の脇に、花を売ろうとよってくる子供たちはもちろん、「外」の住人である。ホストマザーのメリーさんは、これからの国づくりで、若い人を育てていかなければならないのに、貧困により、教育を与えられないのが一番の問題と語っていた。ただ、お金持ちの学生たちを見ていても、どちらかというと幼い印象で、あまり野心もなさそうで、自分の国のことは棚に上げて言えば、国を背負って立つような人材をつくる教育というのは、なかなか難しいものだと思った。 さて、玄関を入ってすぐに、広い応接間。その向こうには広いテラスにプールがある。滞在する2人のために、プールは掃除をしてくださったそうで、自由に使ってねと案内される。広くて清潔で、日陰になっていて心地よさそうだ。水辺のテラスにおいてあるソファで昼寝をしたのち、さっそく水に入ってみる。水着を持っていかなかったので、フィリピンのビーチでよく売られている、2メートル弱四方のコットン生地を巻きつける。プールサイドには、おばあさんとメリーさんが、お土産に持っていったクッキーを食べながら、泳ぐ2人を見守っている。気温も高くなりすぎず、優雅な昼下がりだ。水から上がると、ヤモリがちょろちょろと這っていた。ヤモリはシャワールームでも対面したのだが、同じヤモリかもしれない。どうにも、毎晩目が合った。 シャワーも水だけ。でも、寒くないのだから、まったく問題ない。さすがに頭を洗うのに、お湯がほしいときは、台所で熱湯を沸かしてもらい、バケツにくみ入れ、水で薄めればOKだ。暖かい国は、なにかとラクチンだ。 みんな、ありがとう! ツアーの中心はオーガナイズされた学校訪問や散策、ライブコンサートなのだが、きっとこれらのことは他の参加者が書いてくれるだろうと、自分が感じた小さなことを書き連ねてみた。こんなに幸せな時間は、フィリピンのみなさんが暖かい気持ちでツアーを支えていてくれたからだ。ツアー参加者も明るくて楽しい学生ばかりで、盛り上げてくれた。今度は日本で他の誰かを幸せにできるように、こころを尽くしていきたいと感謝の気持ちを胸に抱えつつ、いつもの仕事に勤しんでいる。 |
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